Simple life*

見たこと聞こえたこと感じたこと思うまま

細菌とウイルスってどう違うの?

インフルが流行っています。
わたしもついこの前体調を崩し、寝込んでいました。
でもインフルでなかったのです!よかった!
家族にもウイルスを撒き散らしましたが、幸い発症者は出ず、、、

今自然にウイルスと書きましたが、
インフルエンザはウイルスさんが元となっています。
だから「菌を撒き散らす」という表現だとちょっと違うんですねー

ではでは、その菌やらウイルスやらはどう違うんじゃい!ということですが、、、
ご存知の通り、細菌もウイルスも病原体のひとつです。
病原体というのは、私たちの病気を引き起こす生物です。
、、、というのは一緒なんですが、その姿形や特徴に違いがあります。
同じ人間だけど、日本人とアメリカ人では体格や嗜好に違いがあるのと同じです。


【大きさの違い】
細菌は1mmの1/1000=1μm(マイクロメートル)
ウイルスは1μmの1/1000=1nm(ナノメートル

もうここまでいくとよくわからん!笑
例えば、、、
東京から1km(ウイルス)だとせいぜい隣の駅くらいですが、1000km(細菌)だと九州まで行けてしまいます。
この大きさの違い分かってもらえるでしょうか?
細菌は顕微鏡で覗けば見れますが、ウイルスは小さすぎて見えないくらいです。
ちなみに、スギ花粉は30μmで、これよりも大きいですね。
だから花粉予防のマスクとウイルス・菌予防のマスクは同じであってはいけないんですねえ


【作りの違い】
細菌は細胞壁を持っていますが、ウイルスは細胞壁を持っていません。
この細胞壁というのは、家のようなもの。
細菌はかたつむり、ウイルスはなめくじのイメージです。
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家があると、食事やら洗濯やら睡眠やらできますが、
家がないと生活という生活ができません。
家のある細菌は自分で生きていくことができますが、
家のないウイルスは他のものの力を借りなければ生きていけないのです。


【増え方の違い】
◇細菌
細胞にくっつく
→栄養を吸い取って、細胞分裂する

ひとりがふたりに、ふたりがよにんに、、、って感じです。
ドラゴンボールで出てきそうです笑

◇ウイルス
細胞の中に入る
→その細胞のたんぱく質を利用して子どもを産む
→その細胞が使えなくなったら、別の細胞に引っ越す

上記の通りウイルスさんは家を持たないので、誰かの家に侵入してそこで家族を増やし、
その家がダメになったら新しい家に引越しする、というなんとも悪人、、、

、、、なんですが、ウイルスさんはひとりで生きていけないので、
どちらかといえば、自分で分身を作れる菌の方が怖い気がします、、、。



と、こんな違いがあります。
見えない世界にも、いろいろあるんですねー

インフルエンザをはじめとする風邪の約9割がウイルスが元となっています。
よくお医者さんで聞く「抗生剤出しときますねー」という言葉。
抗生剤は細胞壁を破壊するものなので、細胞壁(=家)のないウイルスには意味がありません。
お医者さんも何かしらの意図があって言ってると思いますが、その目的が何なのか、、、
(もちろん体のことを思って言ってくれている人もいるでしょうが、お医者さんも稼がないといけないので、、、ね)

そもそも薬はその場しのぎでしかありません。
1番大切なのは、自分の体の戦士たち(免疫力)を高めることです。
テストが!会議が!で、どうしても!な時に頼るのは良いかもしれませんが、
日常的にお世話になるものではありません。
いかにして、戦士たちに武器を与えるか、、、
それは睡眠であり、食事であり、休養であり、、、生活そのものです。

人間の体は素晴らしい機能を持っているので、
それをしっかり生かせば怖いものはありません!
みんなが自然に生きれますように、、、*

小さな人から学んだこと

新しい命が”人”として我が家にやってきました。
妊婦時代に重い体を必死に持ち上げて家の中を大掃除して、
小さい服やら何やらを洗濯して整理して・・・
予定日の6月16日までに!と準備をすすめていた。
大方完成したのは、6月頭。
準備万端だよー、と一息ついたのもつかの間、
8日にはわたしのお腹から”人”が出てきました。

やっと見ることができた。
エコーで見ていた宇宙人のような顔・・・ではなくきれいな人の顔。
お腹を挟んで触っていた小さな手と足。
決して聞くことのできなかった声。
本当に愛おしくて、「母になった」という実感よりか、
「大切なものが増えた」という感動が胸にこみ上げた。

5日間の入院を経て、家に帰る。久しぶり。
そこには、これまで開けられることのなかった小さな服たちのクローゼット、
一度も使われることのなかった布おむつたち、
誰も寝たことのない小さなベッドたちが何も言わず、ただただそこにいた。
それだけでなんとも言えない安心感を得た。
わたしは腕の中にいるちいさな人をそのベッドに寝かせる。
その瞬間、不思議な感覚に襲われた。
家族が1人増えたよ。という事実。
だけど、本当はこの家に引っ越した時から3人暮らしだった。
ずっとずーっと、この人はわたしのお腹の中にいた。
話すことはないけれど、お腹の中でわたしたちと同じ時を過ごし、
彼女なりのペースで成長してくれていた。
ベッドや服の準備も本当は2人でやってたんだよね。
小さなベッドに眠る、小さな人を見ながら不思議な感動に浸っていた。

わたしは出産をしたら、『家族のために生きる』ということを決めていた。
だけど、自分にできるだろうか、と少し不安もあった。
今まで自分1人で好きなように生きて来たし
誰かのために生きるなんてことが想像できなかったから・・・
今、この小さな人を見ていると、その不安は無駄だったと思う。
もし『家族のために生きる』ということを決めていなかったとしても
わたしはその選択をしていただろうと思うから。
”『家族のために生きる』ということを決めたから家族のために生きるんだ”
ではなく、
”家族のために生きたいから家族のために生きるんだ”
なんだ。
この人を守りたい、何かあったら助けたい、わたしにできることはやってあげたい
そんな気持ちがいくつもいくつも浮かび上がってくる。
まさに「大切なものが増えた」ということ。

大切なものが増えたということは、失う恐怖も増えたということ。
喜びと悲しみは背中合わせ。
必ず同時にやってくる。
その悲しさを背負ってでもこの喜びは手に入れてよかったと思える。
というか、それが”生きる”ってことだとおもう。
幸せな人生には、不幸が付きもの。
それはみんな一緒で、その人自身がどこに視点を当てて見るか、
どこに比重を置くかで、人生の捉え方が変わるんだろう。

とにもかくにも、わたしはこの小さな人にたくさんのことを学びました。
きっとこれからもたくさんのことを学ばせられるんだろう。
うれしいことも悲しいことも辛いことも笑えることも
いろんな時を共にして、お互いに成長していくこと
それが今の何よりのたのしみです。

大切な人を大切にするということ

 
今日という日が明日も明後日も
5年後も10年後も続くって思ってるけど
もしかしたら明日は来ないかもしれない
そんなあたりまえのことが
あたりまえの日常の中に埋もれてしまう
 
隣で寝息が聞こえること
おはようと朝の挨拶を交わせること
おいしいねと食事を楽しめること
一緒に映画を観れること
いってらっしゃいと言えること
きれいだねと空を見上げられること
 
本当はひとつひとつが奇跡で
一度きりしかなくて
だけどそのことを忘れて
その一瞬を過ごしてしまうことも多くて
 
はっと気付いた時には後悔してた...
 
そうなりたくないから、
こうやって思い出した時には
相手にそっと身を寄せて
温もりや心臓の動く音、呼吸を感じる
その時間は本当に愛おしくて幸せで
何にも変え難い
 
大切な人がいるというのは
自分が起こした奇跡
そして
その大切な人を大切にするというのは
まさに生き様そのもの

田舎での人付き合いがわたしに与えてくれること

「仕事やめました。」の報告をすると、
「お疲れ様」と声かけをしてくれる人がたくさん。
対面で伝えてくれる人、直接メッセージをくれる人、
電話をくれる人、花束を渡してくれる人・・・
いろんな方法で伝えてくれる心の形。
それがなんともあったかくて・・・

それも古座川町に来てから出会った人も多い。
早い人でも出会って1年・・・
本当にこっちの人はあたたかい。

逆に考えさせられる。
京都・大阪を拠点に活動していた時はどんな人間関係を築いていたんだろう。

人との出会いが楽しくて、いろんな人に出会いに行った。
その場限りの人もいれば、今でも連絡を取り合っている人もいる。
だけど、どんな距離感であっても、自分が素直に心をひらいている人は何人だろう。
何があっても助けたい!と思える人は何人だろう。
日頃から気になっている人は何人だろう。

人付き合いの年数は短くとも、自分の中で大きな存在の人は
圧倒的にこっちの人の方が多い気がする。

波乱万丈な人生を歩んでいる人、バリバリのキャリアを持っている人、
破天荒な行動で行きている人、裏社会で生きている人、
都会に行けば行くほど人の母体数が増える分、人の種類も増えておもしろいけれど、
田舎には人ひとりひとりの持つあたたかさや
相手にかける気持ちの重さが違う気がする。
それは社会の仕組みとしても仕方のないこと・・・
どちらが良いとかはなくて、きっとその人に合うものがある。
それが1番いい。
わたしにはこっちの生活や社会が合っている、それだけのこと。

今、都会で苦労したり悩んだりしている人は、
一度田舎に来て人と触れ合えばいいんじゃないかなあ。
たいていの悩みは直接的で無くても人間付き合いが関係しているので、
田舎で人との触れ合いを通していろんなことを学んだり気付いたりすれば
解決してしまう気がする・・・

人の有り難さは知っているつもりでいたけれど、
改めて痛感させられたのでした。

 

 

辞める時に気付くこと「仕事やめました」

今日、ひとつの節目を迎えました。
古座川町に来てから今まで続けていた仕事をやめました。

串本にある島のパン屋さん”nagi”。

今までいろんな職場を経験しましたが、仕事も人も環境も、
間違いなく1番大好きで心地よい職場でした。

古座川町に来る前は、1年間という期限を決めて来ていたので、
その1年で何しよう?と考えているとき、
こっちでnagiというパン屋に出会い、それはそれはとてもすてきなパン屋で、
ここでパン作りを学びたい!という思いが芽生えると
すぐにオーナーのところへ挨拶に行き、面接を受けていました。
そして、わたしのパンに囲まれたしあわせな生活が始まったのです。

あの時、突然京都から来たよくわからない小娘を潔く受け入れてくれた
オーナーご夫婦には本当に感謝です。

あれから、早1年・・・
思い返せば、いろんな学び・思い出がありますが、
nagiというパン屋で働いた経験はわたしの人生において
本当にかけがえのない宝物となりました。

そんな大好きな職場での仕事を終えて、今感じることは
ただただ ”清々しい” ということ。
退勤する時に「お世話になりました」とみんなに挨拶をして出てきたけれども、
また明日の朝「おはようございます」と言って、工場のドアを開ければ
みんなが「おはようー」と何気無く返事をしてくれそうな気がして。
やりきった感でもなく、感動でもなく、何とも言えない晴れやかさ。
そんな気持ちで心がいっぱい。

1日に20〜30枚ものピザを焼くことも
ばんじゅういっぱいの生地を何十個も成型することも
重い鉄板を何十枚も洗うこともとうていないんだろう。
だけど、そのことに対しての悲しさはない。
ただ、そのことが日常だった過去の日を振り返ると何とも愛しくて切ない。

何かが終わったり、何かを失ったりした時には必ず
当たり前が当たり前じゃないことに気付く。
正式には、思い出す。
どんなに楽しいことも辛いこともずっと続くなんてことはなく、
必ずどこかで終わりが来る。
”存在する” ということは、”消滅する” ということ。
命にすると、”生きる” ということは、”死ぬ” ということ。

そのことに気付いているか気付いていないか・・・
頭にあるかないかで自分の在り方は大きく変わるだろう。

だいすきなnagi。
たくさんの学びと気づきと楽しさとおいしさとやさしさと感謝と・・・
いっぱいいっぱいありがとうでした。

”ありがとう”と思える日々に感謝です。

 

生活のベースが違うということ

先週から5日ほど大阪・京都へ行っていました。
友達と会ったり、買い物したり、
古座川町ではあまりできない時間の使い方をしたわけですが。

初日の夜から思ったこと・・・
「都会に出ると、健康的じゃないなあ」

まず、生活が不規則。
夜はわりと遅くまで予定があったりして、帰るのが遅い。
なんてったって、お店が開いてるんだもん。
古座川だったらほとんど21時くらいには閉まる。
お店で日をまたげるところなんてそうそうない。
早いとこ切り上げよう・・・てか、切り上げなきゃってなる。
終わりが早いから、はじまりも早い。

それにも基づくけど、食生活も不安定。
どうしても外食になっちゃって。
もちろん美味しいお店も断然多い。
いいもの取り扱ってそうなお店も多い。
それでもやっぱり相手に合わせたり、飲みに行ったりすると
健康的な食事は取りにくい。
砂糖が多いなってなったり、脂っこかったり、塩分高かったり。
そんなこんなで、2日目くらいから家でご飯が食べたいと
思いながら過ごしていました。

あとは、ムダに多い人への気配り。
電車では席を譲り合い、
道端ではたばこのけむりを気にし、
街中では肩をぶつけながら流れ行く人々を横目にその流れに沿って歩く。
いろんなことで周りを気にしなくちゃいけない。
古座川だったら、気にするものは
風の強さとか鳥たちの声とか気温の変化とか。
まるで気になるものが違う。
どっちがいいかなんてないけど、わたしは人ばっかりに気をとられるのは
なんだか疲れるなあって感じちゃう。

田舎にいると、おいしいご飯が食べられなくて都会に行きたくなるけど、
都会に行くと田舎の自然な生活に戻りたくなる。
どちらにもいい面悪い面があるし、適度な行き来は必要だけど、
やっぱりホームは田舎が合ってるのかな・・・なんて思います。

本物を知る人々と一緒にいるということ

田辺から友人夫婦が家を訪ねてきてくれました。
「友人」と言っても、同年代ではなく、自分たちの親世代。
しかも、昔からの知り合いでもなく、去年一昨年?あたりに出会ったばかり。
それでも、仲良くさせてもらってる。

そのご夫婦がまたいい。
奥さんの何の交わりもないあの笑顔に癒され、
旦那さんのまっすぐで落ち着いた空気に包まれれば、
もうその瞬間はこの世の悪いことがすべて平和に
解決しちゃうんじゃないかってくらいの気持ちになるような人たち。

気温が高い日だったので、旦那さんからの今日のメールには「今日は暖かいね」
風が強く吹いているのを見て言った奥さんの一言は「踊ってるね」
マルコともすぐなかよくなって散歩に連れてってくれた旦那さんは「いい子だね」
お昼ご飯を作ってくれた奥さんに「おいしいです」と言うと、「素材がいいね」
奥さんは車にあるmyお箸をわざわざ取りに言ってくれた旦那さんに「ありがとう」
旦那さんはご飯の片付けをしてくれた奥さんに「ありがとう」

このご夫婦からは、すてきな言葉しか出てこない・・・

まさに田舎ぐらしの象徴のような人たち。

そんな二人も数年前までは、大都会に住んでいた。
冷暖房完備の中で仕事をし、飲み会にも出かけていた。
そんな二人が田舎に来て1番感じているのは、
食べものがとても体に影響している、ということだそう。
外食をするとすぐに関節の痛み等の不調が出るという旦那さん。
今は奥さんがいい食事を作ってくれるから体の不調も治った・・・と。
それで、ほとんど外食もしないし、出かけるときもお弁当を持って行くとか。
とても繊細なそのご夫婦は、農薬を使った野菜と無農薬の野菜の味がわかったり、
新鮮な魚を求めて魚屋さんに言ったり、器で変わる味に気付いていたり。
本物の味を知っている。

食べ物のことはわたしも関心があり、よく思う。
わたしはもともとは砂糖依存だったと思う。(たぶんね)
でもいろいろな情報を知るうちに砂糖を少しずつ敬遠するようになった。
わたしはこのご夫婦ほど繊細でないので、
あまり違いや不調は感じないが、気持ち的なところで変わる。
やっぱりいいものはおいしいし、体も喜んでいる気がする。

調味料やインスタントなものは化学的なものが多く、
知らぬ間に人々の体を蝕んでいる。
忙しくて、お金がなくて、何とでも言い訳はできるけど、
少しでも多くの人が、このご夫婦のように
本当にいいもの”ほんまもん”を食して生きてほしいと切に願います。