Simple life*

見たこと聞こえたこと感じたこと思うまま

最高の相手に出会えた時こそ自立しなければ。

秋から冬にかけての楽しみは、
枯れ葉を踏んで歩くこと。
くしゃくしゃ
ぱりぱり
ぺきっ
いろんな音となんとも言えない感触。
あれが好きでこの時期の散歩はいつも足元がにぎやか。

今年はもうひとつ発見。
どんぐりを踏むのも楽しい。

家の近くにどんぐりがたくさん落ちている場所があって
いつもマルコと散歩する。
わたしが足元の音と感触を楽しんでいる傍ら、
マルコは転がるどんぐりを食べちゃうぞーと必死で追いかける。
どんだけ食い意地張っとんだ。

そんなマルコはいつでも散歩のパートナー。
お互いわがままだから、あっち行きたい!だめ!が
繰り返されるけど、それでも一緒に行く。
犬と人と姿カタチも違うけど、”生きてる”ってことは一緒。

パートナーっていうと、親友とか結婚相手とか仕事仲間とか
いろいろな形があるけど、その存在はとっても心強い。
でも、パートナーがいるからって
自分が強くなれた気になるのはなんだかなって思ったことがある。
確かに、パートナーの存在は心の支えになるし、
やる気を起こさせるし、孤独感も感じさせないし、
いいこともたくさんあるんだけど。
逆にパートナーに頼りすぎちゃうこととか
パートナーがいるから大丈夫!みたいな
自信過剰マンになっちゃうこともあるんだろうなって。
”一心同体”とか”相思相愛”とかいう言葉もあるけど、
それはふたつあるから起こり得ることで、
あくまで自分と相手は別物だってことを
忘れちゃいけないんだなあ・・・とね。

でも、いないよりいる方がいいなって思っちゃうわたしは
根っからの依存タイプなんだろうな。笑

鴨をさばくといろんな職種を経験できる。

クリスマス。
わたしは毎年サンタの格好して街中をうろちょろして過ごしてました。
シングルの時もそうじゃない時も。
洋服着なくても変な目で見られない年に2回のうちの貴重な1回でした。

クリスマスってだけで、街は騒がしいくらいにぎやか。
クリスマスソングが勝手に耳に入ってきて、
赤か緑のものを横目に、楽しそうな人々が流れていいく。
そんな街中で過ごしていました。

でも今年はうって変わってこの古座川町
若い人がなかなかいません。
カップルなんて・・・ご夫婦ばっかりです。
クリスマス感を頑張ってるのは、コンビニがダントツ。
ケーキとチキンまみれの陳列棚に心踊る子どもたち(と、わたし)。

そんな時ご近所さんから朗報が。
「鴨いらんか?」

ということで、この瞬間わたしたちのクリスマスは
チキンではなく、ダックということに決定。
クリスマスの真昼間から鴨との戦いが始まりました。

①捕まえる。
もらう時に歩けんようにと結んでくれた紐がまさかのとれている。
鴨逃げる。
きっと自分の運命を悟っていたのだと思う。
草むらの中、倉庫の下ととにかく隠れて逃げる。
3人がかりで追い込み猟。
捕まえた。f:id:Lutin:20161226135011j:plain

②気絶させる。首を切る。
水の入ったバケツの中に頭を突っ込んで、ぐるぐるして
鴨を気絶させてから、首を切る。
血がどくどく流れ出て、生々しい。
生が死と戦う瞬間。
しばらくすると、動かなくなり、全身の力が抜ける。
血が抜け切るのを待つ。

③お湯につける。毛をむしる。
まずは、熱湯風呂へ。
「湯加減どうですかー」って、熱いに決まってるけど。
そのあと、全身脱毛タイム。
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とにかく手作業で全身の毛を除去。
そしたら、スーパーとかでみたことある、
あの肉と皮の感じになる。

④うぶ毛をあぶる。
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どうしても残ってしまう細かい毛を焼いて除去。
全身脱毛は少しでも残ったらクレームだから。
最新の注意をはらって、毛を除去します。
これで、ムダ毛ばいばい。

⑤解体。
せっかく天気がいいので、青空解体。
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「お客さん、だいぶかたまってますねー」
なんていいながら、整体師になった気分で関節をほぐす。
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包丁を入れる。
鴨は脂がすごい。
「これがね、固まるととれないですよー」
なんて言いながら、無駄な脂肪除去。

そしたら、みるみるうちに肉の塊になっていく。
3分クッキング。(あれ3分じゃないよね。)
で、できあがりがこれ。
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クリスマスダックのできあがり。
持って帰って調理して、おいしくいただきましたとさ。

命をいただく、ってこういうこと。
コンビニでこんがり焼かれた茶色の塊を買うのもいいけど、
たまには本当の生からいただくのもいいかな・・・なんて。

鴨さん、ありがと。

 

命の話

マルコと散歩に行くと必ずついてくる。
どこでどうやってくっついたかわかんない。
けど、くっついてくる。

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今日は立ってた。
元気に立ってた。
愛しいこの姿。

生き物だと命があるのが理解しやすい。
冷たくなるとか、動かなくなるとかあるから。

でも、植物って分かりにくい。
しおれたり、枯れたりするけど、”死んだ”って思わない。
”死んだ”と同じなのに。

冷蔵庫の中にいる野菜たち。
これって生きてるの?
それともわたしたちの口に入ったら死ぬの?
それとも調理するために切ったら?
それとも放って置かれてカビが生え出したら?
それともカビの生えたやつをゴミ箱に捨てたら?
それか土から掘り起こされて、または、茎からもぎとられた時から?

なんか難しい。
お魚だと死んでるって分かりやすいのに。

屠殺場で解体を見た後の肉の塊だったら死んでるものって思うけど、
日が経って色が変わった肉と新鮮な赤い肉を並べられて
こっちが生きた肉だよって後者を指差されたら
あーなるほど、ってなるかもしれない。

一方で「すべてのものに命はある」っていう人。
絶対いる。会ったことある。どこかで。聞いたことある言葉。

そしたら、命って何?
どれが命を持っててどれが命を持ってないの?

わたしはある時、水の命についてよく考えたことがある。
川をながれる水は一つの命なのだろうか?
じゃあ、川の水が流れ出た先にある海の命は?
雫にはひとつひとつ命があるのだろうか?
じゃあ、雫がたまってできたみずたまりの命は?
わからなくて、ある人に聞いたらその人はこう答えた。
「命というものが何か自分で決められていないからわからないんだよ」
命がなにか・・・
目に見えないもの・・・くらいしか出せなかった。

そうして、日が経つうちにそのことを忘れていった。

でも、今この命に囲まれた生活の中でまた命の課題に戻ってきつつある。
これは長らく答えが出ないことだろうし、もしかしたら
自分が死を持ってわかることかもしれないとも思ってる。
少なくとも焦ってはない。
「命とは何か」はわたしの人生をかけたひとつの課題になりそうだなあ。

自然BGM

いつもならBGMがかかってる部屋の中。
雨の日はわざとかけなかったりする。

ここでは自然の音がすごく身近に聞こえる。
雨の音も。

ポツポツかと思えばザーザーになって。
そんな雨の音を聞くために、音楽は鳴らさないことが多い。

そしたら、たまに車の通る音がして
そんでまた雨の音だけになる。

寂しいような寂しくないような。

なんとも言えない雨の日。

秋の色どり

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やっと。
家から徒歩5秒の場所にあるイチョウの木が色づき始めた。

1ヶ月くらい前、京都に帰った時にはすでに黄色や赤色の葉っぱが見られたのに
和歌山に帰るとまだまだ緑色。
実はわたしは緑色の方が好きなんだけど、やっぱり色が変わると
あ〜秋だなあ、って感じられるのもすきで・・・

ここではいつでも自然が季節の訪れを教えてくれる。
教えてなんて言ってないのに。
そんな自然たちは本当にマイペース。
気づけばもう12月でしょ。
あらあら、冬になっちゃう。
このイチョウさんはいつまで秋気分なの?
それでもそんな自然たちが大好きで魅力的で
ついつい見とれてしまう。
あといくつ秋を見つけられるんだろうなあ。

冬はもうそこまで近づいてる。
すでに寒さだけはいっちょまえ。
雪は少ない古座川町だけど、今年はふってくれるのかな。

わくわくする季節の変わり目。

時間神様

あ、久しぶりになっちゃった・・・
何してたかというと、別に何もしてないけど。
ま、いろいろと近況変化ありまして、
気持ち的に忙しかったです。
 
とはいえども、まわりは葉が色づきはじめて、
冷たい風が吹くようになってきました。
スーパーには、さんまやらカキやら
旬のものが並ぶようになって
”秋らしさ”を日々感じています。
 
田舎でも都会でもいっしょだけど、
自分がどんなに止まってたとしても
逆に目まぐるしい日々を送っていたとしても
時間は変わらず動き続けてる。
変わったように思えるのは、自分の感性が変わったから。
 
”神様”っていうのは、わたしは時間だと思ってます。
時間は、私たちには決して操作することのできないもので、
実態もないから触ることすらできないけど、
でも確実にあって、いつでも時間そのものは単体で存在してる。
一生続いて!って思うような楽しい時間には必ず終わりがあるし、
逆にその時は一生残りそうな心の傷でも時が経てば癒えてきたり・・・
時間ってものは味方でも敵でもない。
そんなわけで、わたしは”時間神様”だと思っています。
 
 

ぼぶのあたまのなか

「楽しそうに生きてるよね」とか
「自由人だね」とか
「何目指してるん?」とか
「行動力あるよね」とか
なんかいろいろと人に褒めてもらえる(と思ってるw)
ことがあるけれど、この前シェアメイトの直記と話した時に
改めて自分の行動って何なんだって考えたので書き残そうかなと思います。
 
わたしは小さい頃は人の様子を伺って、その真似をして、
その場を過ごしているような人だったなあ・・・
自分に自信はなかったし(今もあるわけじゃないけど)、
みんながやることやってれば間違いないでしょ、
なんて思ってた。
その反面、人と違うことをするのは好きだった。
一見矛盾しているように見えるけど、人と違うことをしたい
という欲求は自分には人と違う一面がないって
認めてることでもあるんかなって思ってる。
人があえて選ばないようなものを選ぶことで、
自分の独自性を認めたり、差別化をはかってたんかな。
ズル賢いんかもw
 
でもそうやって選んだ選択肢は、自分が本当に心から
「いい!」と思って選んだものじゃないこともある。
「誰かがこうするから、じゃあわたしはこうしよう」
結局は人と比べっこ。
そんな時、その選択には愛がない。
愛のない選択はもちろん愛せない。
そんな愛のない選択をした自分も愛せない。
負のループ。あれあれあれ・・・
これじゃだめじゃん!
ゆっくりだけど、気付いていったのが大学生の頃。
 
人見知りだったわたしだけど、ひとり旅に出たり、
イベントに参加したり、団体に所属したりで、
たくさんの人と出会った大学時代。
大学生だけでなく、社会人にもたくさん出会った。
その中には、仕事の愚痴や文句を言って社会がいかに
おもしろくないかを頑張っておもしろく伝えてくれる人もいたし、
「仕事を辞めたいけど辞められない、年をとるってそういうことだよ」
みたいに未来に絶望しか感じられないこという人もいたなあ。
逆に、「今が1番楽しい!」とイキイキしている人や、
次はこんなことやりたくてね・・・と目を輝かせて話してくれる人もいて、
わたしは、どうなんだろ、って考えていくうちにたどり着いたのは、
 
人と比べて、愛のない選択をするんじゃなくて、
自分と話して、愛のある選択をしよう。
 
ってこと。
 
自分に素直になることが1番。
社会は、常識は、世間は、といろいろ言ってくれる人もいる。
ありがたいことだけれど、他人はわたしの人生の責任まではとってくれない。
つまり言うだけ言って、わたしの人生がどうなろうが、
どうすることもできないし、どうしようもない。
ってことは、自分がしっかりしないでどうする。
他人のものさしで測られた価値を信じて、他人の世界で
他人の言う通りに生きていくのが自分の人生だろうか。
他人は変えられないけど、自分は変えられる。
だったら、たとえ失敗したとしても、他人の世界でするよりも
自分の世界でする方がよっぽど未来は明るいんでなかろうか。
 
って感じで作られているのが、わたしの選択と行動かな。
書き出すとキリがないから、多少簡略化w
直接言葉にして話す方がいいな。
 
なんか最後の方、他人否定で独立心にあふれてる人、
みたいになったけどそんなこと全然なくて、むしろ依存傾向で(笑)
ひとりでなんか生きていけるわけないと思っております。
わたしのしあわせはたくさんの人や自然や動物たちの
命によって作られてるなあと日々感じております。
たくさんの命と助け合って自分に正直に生きていきたいです。